8月29日はバスで沿岸部を巡りました。
福島市を出発した時、0.07μsbであった放射線量計は双葉町では5.5μsbまで引きあがりました。
止められた時間
津波で流された浪江町の沿岸部は、津波による被害後、原発事故によって立ち入りを禁じられ、他県の沿岸部と比べても復興が緒についていません。
浪江町請戸地区で写真撮影しました。
あたり一帯が津波で流された様子は、2011年当時の岩手や宮城の沿岸部と同じ風景でしたが、未だ帰宅準備区域であり人が住むことはできません。青々と草地がつづき人気もないこの地域に、人の笑顔がもどるのはいつの日のことでしょうか。
富岡町の駅前の商店街は、津波によって割られたガラス窓や、倒壊した建物が2011年の3月のままに残され原発事故によって失われた時のむなしさを感じさせました。
同じく富岡駅前の住宅
なまなましく羽毛布団がのぞく押入れの前に、軽トラックが突入しています。
富岡町のとなりの双葉町には、これから大規模な放射性廃棄物中間貯蔵場が建設されます。はたして、この地に人がもどってくるでしょうか・・・
10年後20年後まちに戻る日のために
南相馬市では1級建築士である、元浪江町仮説住宅自治会長小澤是寛氏の講演をお聞きしました。
小澤氏は、浪江町の突然の避難の様子や避難所での苦しみをDVDにして伝えておられます。
その中では、行先も知らず「ほんの2,3日」と出発した避難民のすがたや、逃げた避難地域がむしろ高放射線量地域であったという事実、寒さや食料、物資不足の中で体を壊していく高齢者が描かれ、思わず涙があふれました。
浪江町は2017年に避難地域解除をめざして復興計画づくりに全力を挙げています。
住民の帰還意向調査では「もどりたい」という人は18.8%にすぎず、若い人の多くが帰還を望んでいません。復興計画は難題が山積みです。
けれど、小澤さんの
「若い方は浪江町に戻る方は少ないと思うが、10年後20年後に浪江町に戻ろうとする、故郷への思いを忘れることのないよう、復旧・復興に先に戻る高齢者との絆を大切に、どんどん前向きに進んで・・・・もらいたい」という言葉に、何年かかっても必ず浪江町を復興させるという強い意志をかんじました。
このセミナーを主催されたのは「新建築家技術者集団」のみなさまです。素晴らしい企画を成功されたみなさまに、心から敬意と感謝を申し上げます。 |